小青田の昔
昔の小青田には、こんなことがあったようです。
■小青田の変わった風習
江戸時代の終わり頃から昭和20年頃まで、小青田では家を増やさない方策をとっていました。
村の中で付き合いをするには、畑を一町、田んぼを一町、山林を一町ずつ持たなければ、村に加盟させないという決まり事がありました(一町というのは、現在の約1ヘクタール(100m×100m)を言います)。
そのため、明治から昭和にかけて、1軒しか村加盟できませんでした。やがて、第二次世界大戦後はこのような風習はなくなり、自由になりました。
■村八分
江戸時代から第二次世界大戦にかけて、村のルールに反した時は、村全体からその違反した家との交際や取り引きなどができなくなるという、村の法律がありました。
しかし、火事や葬式については「二分付き合い」といって、付き合いがありました。
■集会などの席順
御歩射(おびしゃ)や村の集会などの席順は、上下の格式が重んじられ、村の役員が一番上座となり、次に土地やお金をいっぱい持っている資産家、一番下に一般の人となっていました。
村の役員になるためには、資産家の人しかなれませんでした。資産家の中でもいろいろな事情があって、役員になるには大変なようでした。
役員になれると、その家が大変名誉なことになるので、争って役員になるようなこともあったそうです。
■村廻り
お婿さんに来た人は、村加盟している家に1軒1軒、あいさつをして廻ったことをいいます。
「私は、どこそこの家から誰々の家にお婿に来た誰々です。よろしくお願いします」と言って村中を廻ったそうです。
あいさつをしたそのお婿さんは、その日から小青田で生まれた人と同様におつきあいが出来るようになりました。
■兵隊送り
昭和20年8月までは、兵隊に出征する人を村中の人が神社に集まり、無事戦場から帰還することを祈って送り出しました。
小青田木戸(今の柏たなか病院)の近くまで行列になって
バス停まで送り、バスに乗るときに万歳三唱して送り出し
ました。
しかし残念なことに、小青田から戦争に行った人のうち、
9名の方が亡くなりました。
平成6年に姫宮神社の中に「顕忠碑」という石の記念碑を
建立して、亡くなった方たちを慰霊しました。
■旅に出発(旅立ち)
以前は、現在のような交通機関が発達していなかったり、あまり安全な世の中ではなかったので、柏市からとても遠くの三重県の伊勢神宮へ参拝に向かう時は、姫宮神社に集まって旅の安全を祈願して出発したことを「旅立ち」と言いました。
また、伊勢神宮の参拝を記念して、祈念碑などを寄贈したりしました。
■三ツ堀(野田市)地区との縁組み
野田市の三ツ堀地区には、毎年4月3日に「おおはらくち祭(どろんこ祭)」があって、椿の枝に泥をつけて引いていく習わしがあります。
しかし、小青田では椿の木を神様の木として大切にしているので、三ツ堀地区とは相性が悪いとされました。
そのため、三ツ堀地区の方たちとの結婚は、何百年もないため、直接の親戚はおりません。